序文——北欧を旅する人の「幸福の靴」となることを願って

ハンス・クリスチャン・アンデルセン

さあ、お話をはじめますよ! ……などと威勢よく語り出すことができればいいのですが、ここでお目にかける文章は、アンデルセン紹介としてはずいぶん無愛想に思われるかもしれません。といいますのも、すでに周知されて久しいハンス・クリスチャン・アンデルセン(Hans Christian Andersen 1805-1875)の名を語ることは、いまいち気合いの入れどころがわからない、芯でとらえようのない仕事にも思われるからです。

みなさんにとってもおそらく同じことで、今さらアンデルセンの話なんて……と思われる向きは少なくないのではないでしょうか。いったい私たちは、次のようなお定まりの書き出しを何度目にしたことでしょう。

『親指姫』や『マッチ売りの少女』、『人魚姫』の作者として知られる「童話の王様」H・C・アンデルセン(アナスン)は、1805年4月2日、デンマークの中央部に浮かぶフュン島のオーゼンセに生まれました。父は貧しい靴職人、母は洗濯女として苦しい家計を支えていました……云々。小国の地方都市に生まれた詩人が『みにくいアヒルの子』よろしく世界的作家となって世界に雄飛するという手垢のついた立志伝を、そのまま語り直したところで芸がないというものです。はたまた、アンデルセンが火事を恐れるあまりどこへ旅するにも脱出用のロープをトランクに入れていたことや、イギリスにディケンズを訪ねた折の感情のすれ違い、その他数々のエキセントリックな言動についても、この場でご披露するには及ばないでしょう。

すでに幾多の評伝で面白おかしく紹介されているその種の珍談を繰り返さずとも、アンデルセンにはまだまだ光が当てられていない謎が多く残されているのです。そもそも彼は、あの創作童話というジャンルをどうして選ばなければならなかったのか、童話の着想はどこから汲み出されたのか、そしてそれらの主題は後世の人々にどのように受け止められたのか……考えるに価することは数えきれないぐらいあるはずです。

これから6回にわたって、読者のみなさんとともにアンデルセンの事績をたどることになります。私たちは、知っているようで知らないアンデルセンと出会い直すことで、ありがちな観光案内や現地生活者のリポート記事には映し出されない異貌のデンマークを覗き見ることができるはずです。それはまるで、おとぎ話を読むときのような、憧れと予感に満ちた体験になることでしょう。各回の文章が、アンデルセンのタイムトリップ物語さながら、異他なる時空間へ旅するための「幸福の靴 Lykkens Kalosker」となることを願ってやみません。

だから、もういちど、はじめてアンデルセン童話をひらいた子どものような気持ちで言い直したいのです——さあ、お話をはじめましょう!

 

参照文献

Kofoed, Niels: Løvens bastion – Foredrag og essays fra et H. C. Andersen-år. C. A. Reitzel 2006.

著者紹介 / 奥山裕介(おくやま ゆうすけ)

1983大阪府生まれ。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得退学。デンマークを中心に近代北欧文学を研究。共著に『北欧文化事典』(丸善出版、2017年)、訳書にマックス・ワルター・スワーンベリ詩集『Åren』(LIBRAIRIE6、2019年)とイェンス・ピータ・ヤコブセン『ニルス・リューネ』(幻戯書房、2021年)がある。