第3回「南へ」
14歳で俳優を志しコペンハーゲンに渡ったアンデルセンは、その後作家に転じてから29回の外国旅行を経験しています。「旅することは生きること(At reise er at leve)」という言葉を遺し、小国デンマークのムラ社会の外へ幾度となく飛び出したアンデルセンは、未知なる異国で脳裏に刻まれた鮮烈な印象を、数々の紀行文学に結実させています。その最初の試みが、コペンハーゲンの市壁を抜けて運河を越えた先にあるアマー島へ足を伸ばした体験を語る『1828年と1829年のホルメン運河からアマー島東岬までの徒歩旅行』です。アマー島は16世紀のクリスチャン2世の施策でネーデルラント農民を入植させてから、コペンハーゲン市民のあいだでは一種エキゾティックな田園エリアとみられていました。市民的日常の隣にあったこの内なる「異郷」への旅は、ロケーションの特異性もさることながら、若く荒削りなアンデルセンの手にかかると、内面の混沌を惜しみなくさらけ出したような奔放な筋立てで再現されます。E・T・A・ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann 1776-1822)を意識した、奇想天外なイメージの氾濫は、後年の童話世界を予感させる脳内のドキュメントともいえます。実人生と虚構の境を自在に往還する旅行文学作家としてのキャリアもまた、ここから始まりました。
1831年には、ハインリヒ・ハイネの『ハルツ紀行Harzreise』(1826年[執筆は1824年])に触発されてドイツへ赴きます。このとき、ドレスデンで精力的に朗読会を催していたロマン派のルートヴィヒ・ティーク(Ludwig Tieck 1773-1853)を訪ね、またベルリンでは詩人で博物学者のアーダルベルト・フォン・シャミッソー(Adalbert von Chamisso 1781-1838)の知遇を得ました。この旅の印象は、同じくハイネの『旅の絵Reisebilder』(1826-31)を意識した韻文まじりの紀行『1831年夏のハルツ、ザクセン・スイスその他をめぐる旅の影絵』に綴られています。ドイツ各都市の文学者を訪ね歩いて国外での人脈を誇示する様子は、前回紹介したバゲセンの『迷路』の影響が濃厚です。しかしながら、彼の最大の転機となったのは、何といっても1833年から1834年の旅です。行く先はイタリア。ゲーテの足跡をたどる道行きです。
ここで旅行文化の歴史を振り返っておきたいのですが、そもそもヨーロッパにおける外国観光の起源は、16世紀のイングランドに発祥した「グランドツアー」と呼ばれる古典的な旅行形態に遡ります。この時代の外国旅行は、若い貴族子弟の修行の機会という性格が強く、ルネサンス期の大陸ヨーロッパで見聞を広めさせることが目的でした。最終目的地であるイタリアでは、古代ローマやギリシャ植民市の時代を伝える遺物が待ち受けています。少壮貴族たちは、ヨーロッパ文化の知的基盤に触れるなかで、領地経営者としての見識、また政治家としての威信を身につけることを期待されたのです。
下って17世紀から18世紀にかけて、グランドツアーはヨーロッパ全域の貴族層にいっそう馴染み深い教育イベントとなりました。このあたりから、出立前から古典作家の作品をラテン語・ギリシャ語の原文にあたって予習しておく習慣が根づいたほか、若様の指南役の任を帯びたお付きが同道し素行を監督するなど、いっそう周到な準備が行なわれます。
そして18世紀後半のゲーテのイタリア旅行のころから、市民階層のとりわけ芸術を志す若者の南欧漫遊が、デンマークでも徐々に盛んになりました。19世紀に入ると、ドイツ諸邦を経由してイタリアを目指す「教養旅行(dannelsesrejse)」が詩人や画家のあいだで主流となり、芸術的成長の契機となります。アンデルセンの後援者となり、前述のティークを彼に紹介した詩人のB・S・インゲマン(Bernhard Severin Ingemann 1789-1862)も、1818年から翌年にかけて王室の援助でイタリア旅行を経験しています。デンマークに帰ったインゲマンは、ゲーテへのオマージュともいうべき戯曲『タッソーの解放Tassos Befrielse』(1819年)を出し、ついで『ソールーの祭壇画Altertavlen i Sorø』(1820年)や『マリーイ叔母さんMoster Marie』(1820年)など、庶民の日常生活に取材した詩的リアリズムへと傾斜します。周縁ヨーロッパの出身者にとって、「教養旅行」はヨーロッパの芸術遺産にアクセスする窓口でした。それは同時に、民衆の何気ない素朴な生活のうちに芸術創作の資材を発見するという、美的な価値転換の場ともなったのでした。
「教養旅行」がデンマークの芸術家青年のあいだで広まりだすと、イタリアにはデンマーク人のコミュニティが形成されます。ローマ在住の彫刻家ベアテル・トーヴァルセン(Bertel Thorvaldsen 1770-1844)を慕うアンデルセンは、彼を尋ねてそのサークルの一員となります。長年にわたりデンマークを離れて活動するトーヴァルセンの言葉は、故国での冷評に傷つきやすいアンデルセンを大いに慰めました。
アンデルセンのイタリア滞在中の日記を読むと、各地の画廊や美術館を熱心に見て回っていた様子が窺われます。紙面のあちこちには、雄大な自然を背景にした建築のスケッチが拙い筆致で描かれています。高緯度地域の北欧ではめったに体験できない明朗な自然と古典芸術への渇望を性急に満たす、若者の愉悦がそこに爆発しているようです。
ところが、汲めども尽きぬ芸術的歓喜を暗転させる報せが、故国デンマークからもたらされます。スイス滞在中のアンデルセンがコペンハーゲンに送った詩劇『アウニーデと人魚Agnete og Havmanden』(1834年)が、批評家のみならず近しい友人からも酷評されたのです。とりわけ、アンデルセンの庇護者であった王室顧問官ヨナス・コリン(Jonas Collin 1776-1861)の息子イズヴァト(Edvard Collin 1808-86)からの批判は、彼を深く傷つけました。兄弟のような愛情で結ばれていたはずの親友から冷評をもって報いられたアンデルセンは、父ヨナスを介してイズヴァトに反論を書き送りますが、両者の関係が修復不能に至ることを恐れたヨナスは手紙を焼却します。
折しも故郷の老母の訃音がもたらされたころで、アンデルセンは悲嘆の暗闇に叩き落とされました。さらに、当時コペンハーゲンの演劇・出版界で絶大な発言力を得ていた詩人ヨハン・ルズヴィ・ハイベア(Johan Ludvig Heiberg 1791-1860)が、ヴォードヴィルの劇中でアンデルセンをこき下ろす一文を挿入しているという報せが伝わります。ヘーゲル美学の紹介者であるハイベアは、市民文化の洗練に貢献することが芸術作品の使命であると説き、作者の内で確立された体系的理念に裏づけられた形式美を求めました。この体系信奉の威力はすさまじく、パリから移入したヴォードヴィルは、ハイベアの創作理論を実践するのにもっともふさわしい劇形式として主流化していきます。アンデルセンが敬仰してやまないウーレンスレーヤの戯曲も、ハイベアが王立劇場の監督に就任すると同時に、没理念的として演目から排除されます。
哲学肌のハイベアからみて、文法や綴りの間違いなどお構いなしに奔放な空想の飛躍をみせるアンデルセンは我慢ならない異端児でした。基礎的教養を欠き、思想性も体系的理念も脱け落ちた傍流作家を、ハイベアは「即興詩人」として嘲ります。つまり、芸術メディアの主流から疎外された下位文化の徒輩であると宣告したのです。
しかし、ゲーテの『イタリア紀行Italienische Reise』(1816年)やジェルメンヌ・ド・スタールの『コリンヌ、もしくはイタリアCorinne, ou l’Italie』(1807年)に描かれる詩人の姿に親しんでいたアンデルセンは、即興詩が決して軽蔑されるべきものではなく、芸術の名にふさわしい独創的な娯楽であると考えました。これら零細な路上芸人こそ詩的空想と民衆生活の両方に根ざした真の芸術家なのだと確信していた彼は、友人への手紙でみずから積極的に「即興詩人」を名乗ってみせます。自らに向けられた嘲笑を逆手にとったこの諧謔精神が、彼の名をヨーロッパに知らしめる最初の長篇『即興詩人Improvisatoren』(1835年)へと結実するのです。
『即興詩人』は舞台をイタリアにとっていますから、デンマークの読者には遠い異国の青春生活を擬似体験させるファンタジックな作品と映ったでしょう。作中に描かれるイタリアの景物はひとつひとつが精彩に富んでいて、とりわけ結末に置かれたカプリ島「青の洞窟(Grotta azzurra)」の描写は息を呑むような神秘性をたたえています。主人公アントーニオは、若くして孤児となった貧しい少年ですが、詩才に恵まれ、富裕なボルゲーゼ家の庇護を受けることになります。アントーニオの悲恋と芸術的成長の物語はアンデルセン自身の体験を反映していて、周辺人物もコペンハーゲンの友人や芸術家、知識人をモデルにしているようです。
たとえば、伝道者学校時代のアントーニオが出会ったハバス・ダーダー(Habbas Dahdah)というアラビア風の名前の教師は、杓子定規な基準で学生の詩を添削する厄介な人物です。ペトラルカを賞賛する一方でダンテを貶めるこの学者先生の造形には、アンデルセンが若年期に出会ったふたりの難物が深く関わっています。ひとりはアンデルセンをこてんぱんに批判した文学史家クリスチャン・モルベク(Christian Molbech 1783-1857)、もうひとりはラテン語学校時代の暗い記憶を植えつけた校長スィモン・マイスリング(Simon Meisling 1787-1856)です。ちなみに、「ハバス・ダーダー」をラテン語もどき(pseudo-latin)の読み方で転記すると、“Habeas data” (ぶん殴られちまえdu skal have smæk)というほどの意味になるようです。自分を苦しめた故国の学者連に対して、作中世界で仇を討ったのですね。
アントーニオが遭遇する諸々の事件は、実のところデンマークにいたころのアンデルセンを取り巻いていた文学状況のカリカチュアであるといっていいでしょう。イタリアを舞台に仮構された物語空間で、アンデルセンは支配的な文学様式に適応できない「即興詩人」としての自己を大胆に解き放ったのです。
ここまで教養旅行から『即興詩人』の成立までをお話ししたのですが、今回のお話は見慣れない人物名が多出して長くなってしまいました。ここからいよいよアンデルセンが童話作家として世界に名を馳せるのですが、みなさんそろそろお疲れでしょう。続きはまた次回にお話しすることにします。
参照文献
参照文献
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Andersen, H. C.: Improvisatoren. C. A. Reitzel 1835.
Andersen, H. C. / Brøndsted, Mogens (udg.): Improvisatoren. Det danske Sprog- og Litteraturselskab / Borgen 1991[original 1835].
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