小池香緒里

フィンランドという国は素晴らしい。でもその素晴らしさを説明するのはとても難しい。
私はまだその時ほんの子どもだった。子どもの私とってフィンランドは、ただ単純に「いいところ」だった。雪遊びができ、森や庭では動植物が見られ、アウトドアスポーツも楽しめ、おまけにサンタにもムーミンにも出会えたのだから。でも、今ならわかる。あのフィンランドでの幸福な日々が私にくれたものは何だったのか、少しずつだけれど理解できるような気がする。

フィンランドから日本へ生活の場が移ると、毎日が変わってしまった。なんだかよくわからないけれど、歩み続けることをやめたくなるようなこの気持ち。言いようのない自分への嫌悪。日々感じざるを得ないのは、自分の中の欲望とか、他人とすぐ比べるところ、人を傷つけたことなど、道徳に反したそういう瞬間の数々だった。見えないふりはできても、視界を常に曇らせて、晴れることはない。そういう毎日の連続のままいったいどこまでそうしていくのだろう。

私はとても疲れてしまった。やることや守ることがあまりにも多く、細分化している日本に。それから逃げたり、ごまかしたり、嘘ぶいたりと追いつめられて、自分を守る術だけ身につけてしまったと思った。周りに生かされているのを忘れ、自分の目先の利益や欲に心奪われ、溺れていく気がした。何をしても正しいことをしている気がしない。そしてそれは全て、日本社会のせいだと私は思ってしまっていた。

私は、恋しかったのだ。フィンランドの森のかすみのような空気が。全てが生き生きと感じられた心の躍動感。そして良心をもっていた自分。あのゆとりある頃、「正しくいる」ことは幸せなことだった。自分の隣にいる人が困っているとき、物言いたげなとき、黙って考えたい時、それを感じとって叶えられたし、人の才能の素晴らしさに心から拍手を送り感動していた。自分にあるものもないものも素直に受けとめられた。

でも、そういうものなのだとふと気づいた。すべての謎は「成長」にあったのだ。私は純粋無垢な子ども時代を夢物語のようなフィンランドで過ごした。そしてちょうど心模様が複雑化するティーンの時に障害の多い日本へ帰ってきたのだった。そしてそれは、それでよかったのだ。私はフィンランドから「羽根」をもらったのだから。その羽根は立ち止まってしまった私を妖精のように軽くし、再び飛び立つ力を、暗雲からわずかに覗く幸せの木漏れ日を感じる力を、深い森に迷っても喜びに通じる小道を見つける力を与えてくれた。そして日本は私に人生がいかに複雑で多くの苦難に溢れているかを教えてくれた。そしてそれでもそれに耐えてゆかなくてはということも。暗い北欧の冬に辛抱して春の光を待つ野ウサギのように。
私はあの時あの場所でなくてはもらえないものを、どちらの国からももらっていたのだった。フィンランドからは、この世の喜びに手をのばせる妖精に私を変えてくれるような羽を。日本からは、哀しみの重みを胸にきざみながら、地に足をついていられる根っこたるものを。そして、この両方がなかったら、どちらかが欠けてしまっていたら、私はきっといつか、つまずいてしまうことになっただろう。
私はフィンランドでの遠い日々をこよなく愛していたのに、正義にこだわるあまりそれをしがらみに変え、祖国日本におかどちがいの憤りを感じていた。今、時の流れが記憶の中で凝縮され、静かにゆっくりと熟成した。思えば正しい道とはいつも茨の道で、正しく、清く、優しくいることは必ずしも人にとって幸せではなく、時に激しい苦痛や圧迫に変わってしまう。だから欠点を直したり、隠したり、装ったりするのではなく、自分の内面、心の中の泉を覗いてみて、解放してあげることが大切だと思う。人の心の問題でも、国の情勢の問題でも。
今、私の心の中ではフィンランドと日本の二つの母国が生きている。今になってようやくうまく共存することができたのだ。そして私の心の中の泉はゆるやかに流れ出した。それが誰か旅に疲れた人ののどを潤すことができれば、私はどんなにかうれしいだろう。そして私も誰かにもらった水をほろりとするほどおいしく感じられるだろう。

(こいけかおり フィンランド語初級)

(本稿はOSV23号に掲載されたものです)